日記の補集合

日記であったりなかったりする

怪文書について

    この記事は受験生AdventCalendar2018 1日目の記事です。あなたがこの記事を読むのに費やした時間は二度と戻りません。予めご了承ください。

 

 

 

 

 

    sksat_tty氏が受験生AdventCalendarなる様子のおかしなものを始めていた。僕はその言葉の持つアンビバレントな雰囲気にすっかり魅せられてしまった。その瞬間、僕はこの記事を書こうと固く決意したのであった。


 しかし、そこには問題があった。書くべき内容がないのだ。受験生AdventCalendarというからには受験にまつわるエトセトラを書かなければならないのだが、僕はあまり受験に詳しくないのである。確かに僕は受験生だが、いわゆる「受験生としての自覚」に欠ける部類の受験生だ。単語帳や参考書より漫画の単行本(最近は『やがて君になる』に感情の全てを支配されている)や小説や背伸びして買った読めもしない哲学書を好み、刻苦勉励というよりもっぱら牧歌的な生活を送っている。それに僕は受験があまり好きではない。同じ年代の人がいっせいに同じ方向を向いて同じことをするのが何だかあんまり面白くない。何が面白くないのかと問われれば、気の利いた答えを返すことができないのだが、とにかく何となくつまらないのである。したがって、僕はこの詳しく知っている訳でもなく、好きですらない「受験」というテーマを前にして、ただ困惑するのである。


 記事の内容について勘案していたところに、これまたsksat_tty氏のツイートが目に留まった。

 

受験生アドベントカレンダーは日々人生という試験を受験している皆様の怪文書を広く募集しています

 

 つまり、怪文書なら何でもいいらしい。だが怪文書というのは書けと言われて書けるものではない。自ずから湧いてくるようでなければ怪文書とは呼べないのである。

 

 されど、かつて怪文書作成の雄としてその名を轟かせた僕である、抜かりはない。僕のPCの「落書」と命名したフォルダには、僕がこれまで書いてきた怪文書の数々が眠っている。意気揚々と「落書」フォルダを確認すると、そこには過去の僕が書いた怪文書が20ほどあった。

 

 それらを一つずつ眺めていると(一生の中で最も無駄な時間であった)驚くべきことに、まともなものが一つもないことに気づいた。怪文書だからまともでないのは分かっていたのだが、インターネットに晒すに耐える質のものが一つもないのである。

 

 僕は過去の自分を恥じ、そして憤慨しながらそれらの怪文書を全て闇へ葬り去った(過去の自分が書いた文章というのは、現在の自分から見るとどうも稚拙で恥ずかしいものに映るらしい)。これらの怪文書が日の目を見ることは二度とないだろう。


 結局、僕は思い出したくもない黒歴史怪文書を見返し煩悶しただけで、肝心要の記事の内容については何も決められていないのである。一体どのようにして怪文書を書けば良いのだろうか?僕は大いに悩んだ。もっと深刻に悩むべき問題(例えば受験など)を差し置いて悩んだ。こんなことをしている場合ではないと知りつつも悩んだ。ふと我に返り、「なぜ受験生AdventCalendarなどというフザケタことをしているのか、恥を知れ!」などと自分を罵倒することさえした。

 

 それから1週間ほど輾転反側の日々が続いたが、待てど海路の日和なし、ついには何も思いつかなかった(いくつかの怪文書が生まれはしたものの、どれもあまりにどうしようもなく、読者諸賢のお目汚しにならぬよう、僕はこれを隠蔽する)。書けないものは仕方がないので、怪文書を書こうと思い立ち、断念するに至るまでの経緯を書くことにした。そして僕は思うのだ、これもまた怪文書である、と。つまり、この記事は怪文書についての怪文書、いわばメタ怪文書なのである。

 

 

 

 

追記:今回僕が隠蔽した怪文書をVane11ope氏による編集の上最終日の記事として投稿することになった。怪文書としての出来はまったく酷いものだが、駄文にも名編集、怪文書作成で勇名を馳せる氏の編集にかかれば立派な怪文書になることであろう。